シンガポール・マレーシア研修

国際関係学部 国際文化学科 吉原ゆう子

  • 東南アジア各国(海外研修旅行 )
  • 期間: 2週間(夏期休暇中)

東南アジア研修旅行感想

今回の研修旅行の一番の成果は、シンガポル・マレーシアという国が少し見えてきたことです。五感をフル回転させて肌で感じた研修となりました。

8年前にシンガポル・マレーシア(ジョホール・バルのみ)へ観光で行った時には見えなかったもの……植民地の歴史、多民族・多文化、国が目指しているもの、都市計画、文化遺産の保存、民族と宗教の関係、先住民族の存在……これらを、今回は関心を持って見て回りました。観光コースと、ホテルのレストランで食事をするだけでは、とても見えない部分でした。

街中を自分の足で歩いて、住んでいる人や、建物、寺、博物館、ストリートの様子や地元の人が行く屋台などを自分の目で見て、自分の身体で感じないことには見えてこないことを実感しました。

シンガポル

シンガポル初日の夜、宿泊するホテル近くのコンビニまで水を買いに行きましたが、インド人の男性が道に溢れんばかりに大勢いて(200人?)異様な雰囲気でした。我々はその人たちを掻き分けてコンビニに辿り着きましたが、翌日ガイドに聞きましたら、インドから働きに来た人々が休みの日にこうやってリトル・インディアに集まってくるとの事でした。いつもこんな人だかりなのかと心配しましたが、インパクトのある出来事でした。

チャイナタウン・コンプレックスの中の肉や野菜を売るマーケットや屋台食堂、リトル・インディアのテッカ・センターの活気、りっぱなビルが立ち並ぶオーチャード・ロードやオフィス街、綺麗に整備されたマーライオン・パークとドリアンの形をしたシアターズ、ヒンドゥー教寺院にモスクに中国寺院、ゴミのポイ捨てには最高S$1000(7万円程度)の罰金で喫煙場所以外での喫煙も罰金を取られる、中国系77%マレー系14%インド系8%(人口約420万人)の多民族国家シンガポル、古いものと新しいものと多民族の文化がミックスされた、色々な顔を持つ面白い国でした。

すれ違う人も、インド人あり、中国人あり、マレー人ありで、日本で外国人とすれ違えば、あれっと意識するようなことが、この国では(マレーシアも同じく)違和感無く、当たり前のようにすれ違っており、いろんな民族がいて、どうしてこの様にうまくいくのだろうかと不思議に思いました。

今回、シンガポル・マレーシアの数多くのヒンドゥー教寺院を見学しましたが、前期の「基礎演習」の授業で、インド・エリートビジネスマンの日本体験記「喪失の国、日本」(M.K.シャルマ著。1992年4月から1年8ケ月、日本に滞在/文春文庫)を教材にして、インド人と日本人の考え方、ビジネス、習慣、宗教観の違いなどを議論したところでしたので、ヒンドゥー教寺院は大変興味を持って見学してきました。我々日本人から見ると奇抜な像に見える極彩色のゴープラム(神々や動物などの彫り物で装飾した屋根)も、著者シャルマ氏が熱心にヒンドゥー教の神に祈る姿を思い出し、どんなものが彫られているのだろうか、どんな神がいるのであろうか、じっくり観察してきました。

ヒンドゥー教の神々はとてもユーモラスで愛嬌のある顔で、インド人と同じ彫りの深い顔立ちをしており、色使いはインド人女性が着るサリーの鮮やかな色に共通したものがありました。丁度シンガポルで見学した日はヒンドゥー教寺院の中でお祭りが行われており、赤や黄色や紫のカラフルな素敵なサリーを着た大勢の美しいインド人女性が集まってきており、ヒンズゥー教寺院はインド人信者の生活と一体化しているように感じられました。

研修旅行の事前に開催された特別セミナーで学習した「ショップハウス」の街並みも実物を見てみると圧巻で、文化遺産として残されるべきものだと思いました。

マレーシア

面積は日本の本州の1.5倍、人口約2300万人(マレー系60%、中国系30%、インド系8%、30を超える先住民族も含まれる)国教は法律でイスラム教と定められているが、多民族によって宗教が多様化しているのでヒンドゥー教、仏教、キリスト教など宗教の自由も認められている。

1957年にイギリスから独立し、1963年にマラヤ連邦からマレーシアとなり、1965年にはシンガポルが分離独立し、マレー半島の11州とサバー、サラワクの2州を加えいまの体制となっている。

独立までのマレーシアの歴史を資料で調べると、多民族国家形成の背景が段々分ってきました。マラカはムスリム商人との関係強化のため15世紀にイスラム教を受け入れています。またマラカ海峡がモンスーンの「風待ち」に適した地であったことが、マラカが交易ルートの中継地として栄え、その利点確保でヨーロッパ列強に支配され、この辺りが日本と比較できない程、多民族、多宗教、多文化の国家形成の源になっているように想像します。

夏休みを利用して、更に歴史を探ってみようと思います。

ジョホール・バル → ククプ → マラカ

バスで高速道路を通らずに、わざわざ国道5号線を利用したのは、「沿線の景色が見える」という立本先生の計らいでした。今回の企画の中でも私がとても気に入っている部分です。沿線に広がるゴムの木や油ヤシは、マレーシアの産業として栽培されているとの事(現在はゴムの需要が減り、油ヤシ中心)。バスから降りて、ゴムの木から樹液を取っているところや油ヤシの植えられている状態を見学しました。どこまでも続く「油ヤシ」の畑はクアラルンプルからペナンへ移動した高速道路の両側にも延々と続いていました。

農村地帯では、道に沿って1軒1軒展示物のように、マレー式住居(高床式)や中国式住居(平屋建)が混在して建っており、家の周りには必ずココナツやドリアン、バナナの木が植えてあり、大変のどかな風景でした。結構日本の農村に似ている景色がバスの窓から眺められ、同じアジアだから似ているのではないかと思いました。

昼食で立ち寄ったククプは小さな漁村で、シーフードが有名らしいのですが、店の下は汚く濁った海で、きれいな日本の海を見慣れた我々には、最初食事をするのに少し抵抗がありました。

マラカ

マラカは、15世紀にスマトラから追放された王子が発見し、王国を建て、その後ポルトガル、オランダ、イギリスに支配され、その歴史的遺産が方々に残っており、古い時代を彷彿させる都市でした。

しかし、ホテル近くのマーケットには豊富に品物があり、大勢の人で賑わっており、結構街の人々は豊かだと感じました。食肉コーナーを見ると、国教がイスラム教であるためか、鶏肉と牛だけで、やはり豚肉は置いてありませんでした。

驚いたことに、ポルトガル人の集落がありました。1511年にマラカはポルトガルに占領されましたが、その時の子孫の集落ということでした。

マラカ川流域のリバークルーズは、川は随分濁っていましたが、昔と同じマラカ川を船で進みながら、家々の並びから当時川から多くの積荷を陸揚げしたであろうことが偲ばれ、暫し昔に戻ったような気分でした。マラカのショップハウスは、シンガポルと違って、ペンキで塗りたてたりせず自然な状態で残っていました。

立本先生の知り合いの店で、マレー料理とシーフードを食べましたが、バナナの葉で包んだ魚のすり身や、ココナツミルクで炊いたご飯が出て、代表的なマレー料理でした。ココナツヤシのジュースが出ましたが(経営者がムスリムなのでビールは出ない)、私にはちょっと甘すぎる味でした。街の至る処にココナツヤシがジュースとして売られていました。

中国人男性とマレー人女性が結婚し(男性をババ・女性をニョニャという)、中国文化にマレー文化を取り入れた独特の文化が作り上げられましたが、ババ・ニョニャ・ヘリテージには、豪華な調度品が展示されていて、ババ・ニョニャの当時の繁栄ぶりが想像されました。

UKM(マレーシア国民大学)

Institute for Environment and Developmentを訪問。大学の中にある、マレーシアの環境と開発の研究所であり、副所長から説明を受けました。

マレーシアの環境問題について1994年から持続的開発を中心に行っているとのことで、環境問題は主にクアラルンプルの大気汚染とゴミ問題だそうです。

説明が終わってティータイムになったので驚きました。こんな場面を想定していなかったからです。お茶を飲んで立っているだけでは駄目で、英語で会話をしなければならない。拙い英語で疑問点を質問してみました。「エネルギーは全部自国調達ですか?」返答の半分以上の単語がわからず、知っている単語だけで理解した結果「天然ガス、石油、石炭all domestic」という事でした。この時、もっと英語に力をいれようと真剣に思いました。

プトラジャヤ

新しい政府街……この街は「素晴らしい」の一言でした。

油ヤシの林を切り開いて新しく造られたこの街に、2010年までにクアラルンプルにある高等裁判所以外の政府関係等の建物すべてを集中させ、マレーシアの新しい政治と行政の中心にするそうです。いわゆる遷都です。既に60%移されており、首相官邸など見事な高層ビル群が建っており、それらを囲むように、そこで働く役人用の高層住宅が建築されていました。

人口が多くて土地のない日本から見ると羨ましい限りです。マレーシアは土地も有り、大きな地震がないので、日本のように真四角なビルを詰めて頑丈に建てなくても良いらしく、三角や四角や丸を組合わせたような全体としてバランスの取れたモダンな高層ビルが多く、色もカラフルで、どのビルを見ても個性があり、この面でも大変羨ましいと思いました。

クアラルンプル

初日の夜、20世紀初頭の雰囲気を残す「Old China Cafe」でニョニャ料理(マレー風中華料理)を食べましたが、ブルーの色のご飯が出てきたのには驚きました。日本ではありえない色でした。青い花の色素で色を出しているということで、実物を見せてもらいましたが、丁度朝顔を小さくしたような花で、お湯につけて色素を出しているそうです。

ブルーモスクは1988年に完成したマレーシア最大のモスクで世界で4番目に大きく、2万4千人も収容することが出来るモスクとの事。白と青の外観と大ホールのステンドグラスが色鮮やかで、モスクはとてもシンプルで、神聖な気持ちにさせる場所だと思いました。国立モスクも見学しましたが、こちらもステンドグラスが鮮やかでした。モスクで使われているタイルのデザインはどれも洗練された美しさがあると思いました。

ノースリーブと半パンでは入場できないので、みんな上着を羽織って中を見学しましたが、殆どのモスクはイスラム教信者でなくてもホールの中以外は見学させてくれましたので、今回の研修で、今まで特別な宗教と思っていたイスラム教に大変親しみを持ち、これからイスラム教も勉強したいと思っている私には良いキッカケになりました。

ブキッ・ビンタンで自由時間になったので、スンガイ・ワン・プラザに行って、インターネットカフェを探してメールをチェックしてきました。プラザの中へ入って驚いたのですが、携帯のブースが何十と並んでいて、若者が群がっており、マレーシアでの携帯の人気を垣間見た瞬間でした。お店の中の若者は、みんな生き生きとした顔をしていました。この国は若者にとって未来や希望があるようです。

KLタワーからの夜景はとても素晴らしかったです。特にペトロナス・ツイン・タワーは必見です。日本語のガイドもあり、夜景は綺麗でしたが、説明の建物が夜でよく見えませんでしたので、昼間にもう一度見学してみたいと思いました。

クアラルンプルのモノレールの各駅には、一つの駅に一つの広告が[NEC]などと大きく書かれており、駅名より分かりやすくていいアイデアだと思いました。

国立博物館はマレーシアの歴史や文化に具体的に触れることができて大変面白かったです。

自由時間に矢田さんとタクシーでイスラム美術館、バードパーク、国立歴史博物館、セントラル・マーケットを回ってきました。4時間M$120(3600 円)の契約です。運転手はマレー人で英語が話せませんでしたが、多く料金を取りすぎたと思ったらしく、「もう1時間どこか行かないか?お金はいらない」としきりに言ってましたが、集合時間があったので、残念でしたがホテルまで送ってもらいました。私が交渉事に慣れてないせいか、「10$=300円」と考えてしまうからでしょうか、「10$高い」と思っても、この炎天下で交渉して粘るより300円ぐらいならまあ良いかと、相手の言い値ですぐOKを出してしまいました。後で、旅行のガイド書を読むと、高いと思ったら交渉は止めて、他のタクシーに移れとアドバイスしていましたが、次回は強気で試してみようと思います。つい日本の物価と比較してしまい安いと判断して支払う日本人の悪いところでしょうか。

イスラム美術館は広々とした新しい建物でしたが、入場者が少なくとても静かで、クアラルンプルの穴場でした。文化遺産の展示品(宝石、コーラン、織物、タイル、世界のモスクのミニチュアなど)をゆっくり見て回ることができました。販売ショップも高価なものから安価なものまで、品質がよい洒落たものがそろっていて、イスラム教の古典的なデザインの商品など、その商品を見ているだけでも展示品を見ているようでした。

バードパークは放し飼いの鳥達をすぐ目の前で見ることが出来て、なかなか面白かったです。セントラル・マーケットではマレーシアの手工芸品、バティック、アクセサリー、雑貨などたくさんの土産物の店が並んでおり、半日ぐらいかけてじっくり民芸品を見て回りたい場所でしたが、時間切れで、切り上げてホテルに戻りました。

マラヤ大学

一番古い有名な大学。ガイドの説明によると、マレーシアでは大学入学もマレー人優遇政策(=ブミプトラ政策)により、中国系など他の民族は大学に入るのが非常に困難であり(マレー人枠50~80%)、中国人などは早い時期から子どもの教育のため貯蓄し、他国の大学に入学させるそうです。他国の大学に入学した子ども達はマレーシアに戻ってこないことが多く、この政策により、優秀なマレーシア人の海外流失が問題になっているようでした。

マラヤ大学ではAsia-Europe-Instituteのガレス氏から非常に解り易い英語で説明を受けました。アジアとヨーロッパの大学レベルでのコミュニケーションや大学院レベルのInternational Masters、教育に関しての具体的な提案、政策を行っており、異文化の相互理解に力を入れているようでした。

ここでも説明会終了後ティータイムがあり、ガレス氏に勇気を出して質問をしてみました。「マレーシアで一番素晴らしいと思われる点は何ですか?」返答は「産業」という事でした。アジア危機の時、タイや近辺の国々より先にすぐ立ち直ったとおっしゃっていました。マレーシアが産業に力を入れ、経済が非常に安定していることが分かりました。

イポー

高速道路を途中下車して、マレーシアで3番目に大きな都市「イポー」に寄りました。ガイドによると、キンタ渓谷で錫が産出されるようになってから人口が増えたそうですが、今はやや下火になり仕事のない人はペナンかクアラルンプルへ働きに出て行くようです。

ペナンとクアラルンプルの中間地点なので交通の要所ともなっていたが、高速道路が出来てからは人の流れが変わり、イポーに降りる人は少なくなったそうです。

イポーという名前は「イポー」という木の名前に由来しており、イポー鉄道駅前の公園にその木はありました。先住民が狩猟の時の吹き矢の毒として樹液を利用していたとの事。危険な木なので、今は街中にはこの公園の1本しか植えられてないようでした。
ブーゲンビリアが市の花となっており、公園には赤白ピンクのブーゲンビリアが綺麗に咲いていました。余りにも綺麗でしたので、3色とも写真に残しておきました。

街の中は川を挟んで旧市街と新市街に分かれており、イポー鉄道駅、タウンホールや高等裁判所などコロニアル様式の建物が多く残っていました。

ペナン

いよいよ研修最後の都市ペナンに入りました。

マレーシア科学大学(USM)の寮に4日間泊めて頂きましたが、こんな経験は普通は出来ないことで、とても楽しみでした。寮はお湯が出ずシャワーは水でしたが、マレーシアの普通の生活を実感しているようで楽しかったです。寮の食事は朝夕とマレー料理ばかりでしたが、結構味に慣れてきて、一番のお気に入りは「ミーゴレン(マレー風焼きそば)」で「ナシゴレン(マレー風炒飯)」も自分の好きなスパイシーな料理を選べるので良かったです。海外に行って、オリーブオイルの匂いで食事が取れなかったという知り合いがいましたが、マレーシアの料理に関しては1年在住しても私は大丈夫のようです。

UMSではInternational Office のスラヤさんからOfficeの役割などの説明を受けました。

マレーシアで訪問した3つの国立大学の建物はどこも大変広いキャンパスの中にあり、バスで移動するような広さでした。中部大学も広いキャンパスですが3~5倍はあるでしょうか。

USM Muziumを Buddy Students のピー君とフレデリック君に案内してもらい、室内でマレーシア伝統のビー玉あそび「CONGKAK」を教えてもらいました。手の指の柔軟性と数学的センスが必要な知恵比べの遊びでした。キャンパス内の大きな木の下で皆で遊んだ、隣の人と同じ動作をして順番に伝えていく「チャッツリ、チャッツリ、チャッチャッチャッ」は真剣になってしまう程大変楽しい遊びでした。

人文学部のウイ氏からはペナンの歴史の紹介がありました。その後のティータイムでウイ氏に「何故Malasya Unionがうまくいかなかったのか?」と質問しましたが、上手に伝えられずここでも英語力アップの必要性を感じました。

マレーシアでは物価が非常に安く、USMの日本人留学生が、1ケ月(1人)M$700(20,000円程度)あれば生活できると言っていました。寮費は1 日M$2.7(80円)、寮の食事は1回M$2~3(60~90円)。普通のマレーシアの1家族の生活費はガイドによると1ケ月M$3000 (90,000円程度)ぐらいだそうですので、日本に比べると随分物価の安い国です。

最終日にBuddy Studentsと一緒に、マレーシア伝統室内ゲームをして遊びました。驚いたことに、どの遊びも、私が小学生の時に遊んだものに大変良く似ていました。「7個の小石を使った遊び」は小さなサイコロ5個使って同じように遊んでいましたし、「ゴム飛び」は殆ど同じで、ケンケンパ(片足と両足で四角の中を飛んで進む)もとても似ていました。マレーシアと日本の遊びがどこで繋がっているのか、調べてみる価値がありそうです。

 

我々からは、日本の遊びとして「イス取りゲーム」と「ハンカチ落とし」を紹介し、一緒に楽しんで交流を深めることが出来ました。

PDC(Penang Development Corporation)

政府のペナン開発公社を訪問。ペナンは香料貿易の中心であったが、シンガポルに移ってしまったので州として開発計画を行うようになったとの事。古い地図と新しい地図を比較してペナンの開発の様子を説明してくれました。沿岸地帯の工業団地の開発は積極的に行われているようでした。アジアのシリコンバレーと言われる由縁もこうした開発計画の結果ということであり、政策は大変重要であると思いました。

工業団地の現場もバスで案内して頂きましたが、日系企業は日立製作所、ソニー、東芝、東レなどが入っており、アメリカはIntel、Motorola、Dellなど、海外の企業誘致により経済は急成長し、1990年代は成長率12%を超えるでまでになったそうです。外資系企業の誘致には税制優遇など入っており、積極的な誘致で製造部門は今やペナン州のGDPの約半分を占めるまでになったとの事。

CAP(Consumer's Association of Penang)

ペナンの消費者組合(NGO)を訪問。アジアでも早い時期に設立されたそうだ。1年に3000件もの案件に丁寧に対応しており、広報も積極的になされており、政府との関係もよいようで、マレーシアにこんな素晴らしい団体があったことがうれしかったです。

広報の仕方も、マレー語、英語、中国語と多民族に対応しており、そこまで行なわれている事に感激しました。多民族が一緒に暮らすには、このような策を取ることが必要なのだと思いました。

一般大衆の意識がまだ低く、立ち上がらせることが一番の問題とおっしゃていました。

副所長マーシャルさんが言われた「Simple Living High Thinking」……High Livingになりがちな日本人として少々見直さなければならない言葉でした。

PHT(Penang Heritage Trust)

ジョージタウン街並み保存の団体(NGO)訪問。会長から説明を受けました。ジョージタウンのショップハウスは1947年に借家人を守る制度がとられ、借家代、借地代を上げなかったので人の流出がなく、古い建物が壊されず現在まで残ったとの事でした。荒廃してきたので、壊すか修復するかの選択の段階となり、歴史と経済の面から、修復路線が取られたようで、来年にはユネスコの世界文化遺産に指定される予定であるとおっしゃっていました。

説明が終わった後、ジョージタウンのショップハウスの街並みを、ガイドに付いて歩きましたが、翌日トライショーに乗って1周し、ペナン博物館へも行ってみました。ペナン博物館にはババ・ニョニャの当時の衣装や豪華な調度品が数多く展示されており、ここでも当時のババ・ニョニャがどれだけ繁栄していたかがよく理解できました。更に最終日に、未だ歩いていない部分があったので、極楽寺へ行く前に、ショップハウスの街並みを歩いてきました。

コムターの展望台から眺めると、Heritage Trail の地図に乗っているショップハウスの街並み以外にも沢山のショップハウスの街並みが広がっていることを発見しました。来年ユネスコの世界遺産として認められたら、広範囲なエリアで保存が進められるのでしょうか。

World Fish Center

国連のフィッシュセンター。世界の8つのフィッシュセンターの1つ。副所長のポータン氏から説明を受けました。魚だけでなく海に住むすべての動植物の問題に関わっているとの事で、目標は科学を利用して貧困をなくすことだとおっしゃっていました。繁殖の強いティラピアの養殖が進められていました。

最後に

異文化のミックスの面白さ、日本では決して味わえない多文化の世界に入り込み、その生活を垣間見ることで少し2つの国が理解できたように思います。

多民族国家が何故このようにうまくいくか私の疑問は今回の旅行で少し見えてきました。お互いの民族を干渉しない、他民族に対して寛容である。問題が起きれば民族の中で解決するということのようです。干渉すれば必ず火種が起き、紛争に繋がるのは目にみえており、「干渉しない」という多民族国家の不文律ルールがあるように見受けました。これは民族間に限らず、親子間、友人間でも同じ事で、干渉しなければ軋轢は起こらない、寛容な態度であれば、不快な気持ちも起こらないということです。その上にりっぱな指導者がいて国家が成り立っているのではないかと思いました。

マレーシアが2020年までに政治・経済・文化などすべての面で先進国の仲間入りをするという「VISION2020」を是非果たして欲しいと思います。

今、研修旅行を振り返って、自分なりに反省点は沢山ありますが、やはり英語が駆使できないことが一番のネックでした。語彙をもっと増やさなければ質問もできないと実感しました。そしてマレー語も学んで研修に参加できたらもっとよかったと思いました。街中や大学の中の表示が殆どマレー語で表示してあったので、意味の分からなことが多かったです。

マレーシア政府は英語が充分使えることが先進国の仲間入りとして重要だと考えているようでしたが、前期の「言語文化入門」の授業で、一つの言語の勢力が広まっていった場合のその生活や文化に及ぼす影響を考えよという課題があり、私の意見としては、全世界の人が第二言語として「英語」を取り入れ、英語で誰とでもコミュニケーションが取れることが世界の平和に近づく第一歩と考えますので、日本も小学1年生から英語(会話中心)を学べる機会を作るようにして欲しいと思います。

今回は、英語の理解が不十分でしたが、立本先生が全部訳してくださいましたので、それを頼りに何とか研修旅行として充分成果を上げられたと思います。

この研修を最初の一歩として、これからもアジアに関心を広げていきたいと思っています。

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