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工法庵・洞雲亭・爛柯軒

伝統的和風建築と庭園

概要

工法庵(くほうあん)と洞雲亭(どううんてい)は正門を入りまっすぐ進んだ奥にあります。9号館の下を通り抜け、20号館北噴水池左岸の桜並木に沿った右手にある数寄屋造りの瀟洒(しょうしゃ)な梅見門をくぐり、池を渡って洞雲亭に到着。工法庵はその奥。滝壺に接して建てられており、梅見門からすぐ左折して滝壺の飛び石を渡ってにじり口に至る露地もまた別にあります。
工法庵と洞雲亭の二棟の研究・調査・建設に、特定研究として、建築学科教授陣と卒業研究生参加の研究製作活動が行われた点で意義深いものがあります。
自然にすくすくと育った樹林に囲まれ、滝の音・せせらぎの囁きを耳にし、春に観桜、夏に水辺の涼を求め、秋は柿の実の熟す色に、冬は炉の暖に雪見障子を覗き、四季を鑑賞するゆとりを若者達は得るでしょう。また文化財遺産の中での茶の湯の味も格別です。茶道部の活動にも利用されるほか、学外の要望に応えて一般公開もしています。

施設

工法庵(くほうあん)

工法庵は貞享3(1686)年出版の『数寄屋工法集(すきやくほうしゅう)』に記されている千利休茶室の寸法書きに忠実に平成2年2月28日、利休400回忌の日に奇しくも復元完成したものです。
寛永10(1633)年淀の藩主になった永井信濃守尚政(茶人・号信斎)が山崎の妙喜庵にあった利休の二畳隅炉の茶室の寸分たがわぬ写しを城内に構えていたことと、この書の著者が永井信濃守尚政の家臣であり、かつ建築係で、建築技術に明るい人物であったことから、この書の寸法書きは利休の死後半世紀頃の利休茶室の様子を正しく伝えるものであり、この復元茶室から今に利休の建築意匠を目で見ることができます。

洞雲亭(どううんてい)

洞雲亭はもと香川県小豆島内海町坂手の洞雲山観音寺の庫裏の建物でしたが、建替えに際して同寺住職加藤義昇氏から寄贈されたもので、文化9(1812)年に建築したことを記録する棟札のある貴重な古建築です。
教育研究の資料として、解体調査の結果、瀬戸内上流民家の典型的なものであることが判明しました。全国的に木造民家の消滅していく今日、文化財遺産の修復保存は有意義なことです。平面形式は細長い単純な四角形をキの字に区画したもので、出入口の土間・台所土間・八丈2間・九畳と台所近くの広い板の間とからなっています。奥の書院付き八畳と九畳の座敷には床の間があり、炉が切られ、また板の間には大炉があって豊かな生活空間が感じられます。外観は屋根が二重造り本瓦葺で重厚な、格式ある風格を備えています。平成3年3月に移築復元修理が完成しました。工法庵と水屋で接続しています。

爛柯軒(らんかけん)

爛柯軒(らんかけん)は洞雲亭の東側に、平成7年10月に竣工した小茶亭です。高さ2.5m、床面積9m2のこの建物は、洞雲亭修復に使用した靖国神社本殿解体修理時の古材が使われています。名前も「道に迷った木こりが、なつめの木の下で楽しそうに碁を打つ童子の姿に見とれ、ふと気が付くと傍らの斧の柄(柯)が朽(爛)ちていた」という中国の爛柯の物語に由来しています。「ふる里は 見しこと有らず 斧の柄の 朽ちし所ぞ 恋しかりける」は都からはるばると筑紫の友人を訪ね、長逗留して楽しく遊んだ紀友則(最初の勅撰集『古今和歌集』を紀貫之とともに撰した人)がこの爛柯の物語をふまえて礼状に詠んだものと言われています。
この建物を設計した伊藤平左エ門名誉教授は自分にとっても、中部大学が「学び舎は 読み書き足りて 斧の柄の 朽ちし所よ 楽しかりけり」。爛柯軒にそんな気持ちを託したといいます。

ご利用案内

洞雲亭・工法庵・爛柯軒は、在学生や本学教職員が利用できます。
在学生の皆様がご利用する場合は、担当教員、クラブ顧問の付添が原則となっており、2週間前までに申込用紙に記入の上、授業に関する場合は学部事務室、クラブ活動の場合はクラブ顧問・体育文化センターを通じて管財部施設課に提出してください。教職員が利用する場合は下記のご利用案内をご覧ください。
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