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短歌「父母(ちちはは)の満州」

【2022年3月30日】

短歌「父母(ちちはは)の満州」

舛山誠一

 私は2015年度の定年まで国際関係学部の教員をしておりました。定年後に短歌スクールに通い始め、2020年のNHK短歌大会の15首連作部門の近藤芳美賞に初めて応募したところ、思いがけず入選しました。たまたまその話を学部長の中山先生にしたところ、それについて書いてみないかとのお誘いがありました。歌自体は初心者の拙いものがテーマの重さで入選したと思うので、お恥ずかしい限りですが、連作の歌のタイトルが「父母の満州」と日本の国際関係史に関わる内容なので、書かせていただくことにしました。15首のうちの数首を紹介しながら、歌の背景について説明したいと思います。

 私は1945年5月に、日本が中国を侵略して中国の東北地方に樹立した傀儡植民国家である満州国の首都の新京特別市(現在の吉林省長春市)で生まれました。父は日本人小学校の教員をしていました。母によると「無敵関東軍」と威張っており、日本人居留民の安心のもとであった関東軍が居留民を置き去りにして南方に転進し無防備になったところに、ソ連軍が同年8月9日に侵攻して来ました。死を覚悟する絶望的状況の中で、男の父は残らなければならなかったので、母はどうせ助からないのだからここに残って一緒に死のうと父に言ったそうです。父は、生れたばかりのこの子(私)に1分でも1秒でも長く息を吸わせてやってほしいと送り出したそうです。

もろともにここで死なんという母に行きてこの子に一日(ひとひ)たりとも
乳飲み子は母に抱かれ謀略の徒花(あだばな)の都逃れ去りたり

 当時日本の植民地だった朝鮮の京城(けいじょう)(現在のソウル)に産婆をしていた母方の祖母と合流しようと、母と、たまたま京城から新京に疎開していた母の妹二人、そして赤ん坊の私との無蓋貨物列車での逃避行が始まりました。これに乗れたのも、父が教え子の父親の軍人に頼み込んだからです。軍人の家族を優先して避難させていたからです。石炭輸送用の貨車だったので、私は石炭の粉で真っ黒になってピクリともしなくなり、母はこの子は死んだのではないかと思ったそうです。頬を突いてみるとニッと笑ったので、生きていると分かったそうです。三十八度線が閉じる前に越えられたのが幸運だったと、母がよく言っていました。

無蓋貨車ピクリともせぬこの吾を死すかとつつけばニッと笑みしと

 新京に残った父は、明日のない自暴自棄の荒んだ生活を送ったようです。当時、新京に残された日本人の子供たちがいました。終戦前の豊かな生活とは打って変わって、みじめで消沈していました。学校に行けなくなったことが特に辛かったようです。それを見ていた父の元教員仲間たちが、奔走して大変な苦労をしながら私塾を立ち上げました。それに参加することで父は生きる希望を見出し、荒れた生活を捨てることができたようです。

流亡の子らに父らが開いたる清明塾に希望の灯(ともしび)

 満州時代のことや逃避行のことは、母が繰り言のようによく話していましたが、父はほとんど語りませんでした。ただ亡くなる少し前に父が遺言代わりだとして、新京に残った1年間のことを『流氓(りゅうぼう)』という小説(自家出版)に書きました(流氓とは流浪の民のことです)。小説にしたのは、父は引き揚げ後の一家の生活のために小説家になる夢を諦めて中学校の国語教師をしていましたが、懸賞小説の大きな賞を2度取ったことがあったという背景からです。その小説の前書きに内容はほとんどが事実だとあったので、それを読んで父の1年間の様子が推察できました。先ほどの私塾「清明塾」の話もそこに出ていました。

  未だ見ぬ故郷は母の繰り言と父書き遺したる『流氓』の中

 父母が夢を追って運命に翻弄された満州、特に自分の生まれた長春に行ってみたいとずっと思っていたのですが、機会がないまま70歳を過ぎてしまいました。そして自らのルーツ探しのような気持ちで、2019年に東京の住所の近くの大学のエクステンションセンターで満州史の講座を受講し、日本による満州侵略の歴史、世界大戦の総力戦に備えた満州開発のことなどを学びました。余談ですが、日本の戦後の経済計画は旧満州国の長期開発計画を範として、旧満州国の官僚も参加して作られました。旧満州国の官僚トップだった岸信介が日本国の首相にもなりました。戦後の高度成長から現在に至る日本は、旧満州国の亡霊によって作られたという側面もあると思います。

 そして、その講座の受講生たちが中心となって満州の歴史を辿るツアーを計画していることを知りました。訪問地には、満州国皇帝の溥儀の即位と満州国崩壊後の退位のルート、満州の資源開発のシンボルだった撫順炭鉱、終戦後の日本人収容所のあった大連などがありました。その訪問地の中に長春も含まれていたので、一も二もなく参加を決めました。

父母の夢のかけらの眠る町訪わんと思いて早や古希過ぎぬ
見下ろせる撫順炭鉱底深し満州びとの夢の墓場か

 これらの歌に「夢」という言葉が入っています。満州国自体は謀略と侵略の上に作られものですが、それに参加した父母などの多くの日本人は、そんなこととはつゆ知らず、日本に正義があると信じて単純に広大な土地に夢を追いかけたことも事実だと思います。戦後、狂気から覚めて報道管制がなくなった日本に帰って、初めてその全容・真実を理解した人が多かったのだと思います。母の繰り言の一つが、「中国の文化革命とか今の北朝鮮はよく分かるわ。戦前、戦中の日本も同じだったのよ。」というものでした。

 旧満州ツアーに参加した人たちのほとんどは、私のように親族が旧満州に住んでいたことのある人たちでした。食事を共にしながらいろいろ話してみると、満州の日本人社会が格差社会であったということがよく分かりました。軍人、官僚、南満州鉄道(満鉄)関係者は満州の上流社会を形成していました。父親が満鉄従業員だったという人は、家族は終戦の前の年に戦況が思わしくないことが分かって家族は日本に帰っていたので、引き揚げの苦労はまったく味わっていないと言っていました。先に述べたように軍人(おそらく官僚も)の家族は真っ先に逃されたわけです。それに対して奥地に取り残された開拓民の引き揚げは、筆舌に尽くしがたい悲惨なものだったことはよく知られています。一人の方は、開拓民の父親が逃避行の最中に妻と子供たち全員を亡くして一人で引き揚げた後に、日本で再婚されて生まれた子供さんということでした。

 溥儀が退位式を行った当時の日本企業の小さな食堂のある、北朝鮮との国境の鴨緑江沿いの町から私自身の目的地の長春までは、主に貸し切りバスで胸を高鳴らせながら向かいました。車窓から見ると広大な平原が広がり、ほとんどがトウモロコシ畑でした。母がよく言っていた果てしない高粱畑とはこんな風景だったのかと感慨にふけりました。父親の勤めた長春の白菊小学校は、きれいな並木道の先の丘の上にあったことも分かりました。

果てしなくトウモロコシ畑広がれり父母の見し高粱畑かく
父勤む白菊小は坂の上 何を想いて並木道行けり

 当時貧しかった日本が列強に対する見栄もあって作ったのだろうと思われる旧満州国のホテル、銀行、満鉄関係のビル、庁舎などの建築物はとても壮大で、今もその多くが使われています。そしてその前には記念碑があり、日本による侵略、偽満州国建国の歴史が刻まれていました。侵略者の末裔としてそれを読むのは心苦しいものでした。一方では父母の夢のかけらでもあり、それを愛しく思う気持ちも抑え難く、大変複雑で重たいものがありました。

数々の歴史建築碑に刻む「偽満」の文字の重たかりけり                

                      (完)


舛山 誠一名誉教授(近影)

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