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日本とメキシコのファーストコンタクト(2) -日墨交流400周年-(国際文化学科 准教授:杓谷 茂樹)

【2009年7月9日】

幕府も外交使節として歓待

岩和田の一件は、この村を支配している大多喜藩の藩主の意向でもあった。藩主の名前は本多忠朝、徳川幕府の実力者である。忠朝はドン・ロドリゴたちを丁重に扱い、2代将軍秀忠に謁見する手はずを整えた。未だ鎖国を行う前の時代のこと、スペインとの交易に関心を持っていた幕府は、遭難者であった彼らを外交使節のように扱ったのだった。ドン・ロドリゴの一行は、その後、駿府(現在の静岡)にいた家康にも謁見し、京都、大坂を経て、九州の臼杵にまで旅をしている。

こうして10ヶ月間にわたって日本に滞在したドン・ロドリゴたちは、1610年8月1日、家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)に建造させた西洋式帆船、サン・ブエナベントゥーラ号に乗って、メキシコへの帰国の途につくことになる。

岩和田の出来事のその後

日本はその後、スペインとはライバル関係にあったオランダのみを西洋への窓口に定め、鎖国してしまう。そうした中で、ドン・ロドリゴのことはいつしか日本人の記憶から忘れ去られていってしまったのだった。ところが、明治時代になって、岩倉具視が不平等条約の改正を目指して欧米を訪問した際に、昔こんな事があったことをご存知ですかと、岩和田の出来事について聞かれたのだそうだ。長い年月を経ても、岩和田の人たちがドン・ロドリゴたちの命を必死で助けたその無償の親切を、ヨーロッパの人たちは変わらずに評価していたのだ。

実は明治政府が外国と最初に結んだ平等条約は、1888年にメキシコとの間で締結した日墨修好通商航海条約だった。そして、メキシコはその後も一貫して親日国であり続けている。そういったことも、ドン・ロドリゴの感謝の心が導いてくれたことのように思えてこないだろうか。現在では、この出来事が結びつける形で御宿町とアカプルコ市、そして大多喜町とクエルナバカ市がそれぞれ姉妹都市になっており、メキシコと時を越えた友好関係を続けている。

そして、あの岩和田での出来事から400年経った今年、日墨両国政府が旗を振って、日墨交流400周年を記念した様々なイベントが全国各地で行われている。7月には愛知と東京で「日墨交流400周年記念事業国際フォーラム メキシコの魅力を探る -- 世界遺産の古代文明と伝統芸術のルーツ」が開催されることになっており、筆者も討論者として参加する予定である。

クアウテモック号が来航し、最後に御宿沖に停泊したことは、まさにそういった日本とメキシコの交流を祝う象徴的なイベントだったのである。

参考文献
 小倉明『ドン・ロドリゴの幸運 日本・メキシコ交流の始まり』汐文社、2008年。

2009年7月9日

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