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日本とメキシコのファーストコンタクト(1) -日墨交流400周年- 国際文化学科 准教授:杓谷 茂樹

【2009年7月8日】

クアウテモック号来航

今年6月にメキシコ海軍の訓練帆船クアウテモック号が東京と横浜に寄港し、千葉県の御宿沖に2日ほど停泊して、その間、様々な歓迎行事が行われたことは、ちょっとしたニュースになった。このクアウテモック号の来航は日本とメキシコの交流がはじまって今年で400年になることを記念したものだったのである。

新型インフルエンザのおかげで、ある意味で有名になってしまったメキシコだが、実はこのメキシコと日本の交流が始まって、今年で400年になることを皆さんは知っているだろうか? 高校などの日本史の教科書に「メキシコ」あるいは「のびすぱん(ヌエバ・エスパーニャ)」という言葉が最初に現れるのは、おそらく1613年(慶長18年)に伊達政宗が支倉常長をヨーロッパに派遣した慶長遣欧使節に関する記述ではないかと思われるが、実はその4年前には、すでに日本とメキシコのファーストコンタクトが起こっていたのだ。それも舞台は日本である。

400年前の出会い

17世紀初頭というと、日本では徳川家康が江戸に幕府を開いたころである。その時代は、すでにコロンブスがアメリカ大陸に到達してから100年以上がたち、メキシコをはじめ、アメリカ大陸の多くはスペインの植民地となっていた。そして、太平洋航路の開設により、同じスペイン領のフィリピンとの間で、船が頻繁に太平洋を行き来するようになっていたのだ。

1609年9月30日に、1隻の帆船が台風に巻き込まれて、現在の千葉県御宿沖で座礁し、乗員は岩和田村(現在の御宿町)に漂着した。この船は、サン・フランシスコ号といって、フィリピン臨時総督の任を終え、故郷のメキシコに帰国途中のロドリゴ・デ・ビベーロ(ドン・ロドリゴ)をはじめとする373名の乗員が乗っていたのだった。

フィリピンからメキシコに向かう船が、なぜ千葉県沖にいるのか、読者の中には不思議に思うものもいるだろう。彼らが乗っていたのはガレオン船といって、まだ蒸気機関のような動力のない時代、風と海流を上手に捕まえて進まなければならなかった。だからガレオン船が、もしフィリピンのマニラから東に向かおうとすれば、日本の近海を北上したのち、偏西風を捕まえて東に向かうというルートをとらなければならなかったということなのだ。

さて、岩和田の人たちから見たら、ドン・ロドリゴたちは得体の知れない異国人であるはずだから、この遭難者たちは村人からどんな目に遭わされるのかとさぞかし不安に思っていたに違いない。その12年前に四国の土佐に漂着したサン・フェリーペ号に乗っていた26人のキリスト教徒が、豊臣秀吉によって磔(はりつけ)にされた事件は、彼らにとっても記憶に新しいものだったのだ。

しかし、岩和田の村人は総出で、彼らを介抱し、着物や食料を惜しみなく与えたのだった。中には、溺れて体温が下がり生死の境をさまよっていた船員を、村の海女が自らの体で暖めて蘇生させたりするということもあったという。こうした村人たちの献身的な行動の結果、サン・フランシスコ号の全乗員373名中、317名が生き残ることができたのだった。また、この船の乗員の中に、日本人キリシタンのイヘエが含まれていたのは、ロドリゴたちにとり不幸中の幸いだったといえる。イヘエの通訳を介して、ドン・ロドリゴは名主の甚兵衛に感謝の気持ちを伝え、1ヶ月余りの間、彼らは村人たちの世話になることになった。人口300人ほどのただでさえ貧乏な村に、突然ほぼ同じ数の異国人が加わったわけだから、生活は想像できないくらい大変なはずだが、村人たちはいやな顔ひとつ見せなかったのだそうだ。村人の温かい心とメキシコ人たちの強い感謝の気持ちの交流が、そこにはあったのだ。

参考文献
 小倉明『ドン・ロドリゴの幸運 日本・メキシコ交流の始まり』汐文社、2008年。


2009年7月8日

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